今年観た映画2025
「映画好き」というほど有名な作品は観ていないのですが、今年は結構観た気がするので振り返ってみたいと思います。
今年関係なく好きな映画は「リリイ・シュシュのすべて」「ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン」「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」「去年マリエンバートで」など!
ネタバレ注意です。
1月
機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-
「映画初め」がこれだったの、もういい年です。
Plasmaが流れるところでガチ泣きしました。
シュウジ・イトウがやばい。と当時の私は言っていました。アニメ全話駆け抜けた今となっては3人がみんな好き。
劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク
ストーリーが「王道な初音ミクの物語」としてとても良かったです。音楽を届けるキャラクターっていいなぁ。
各ユニットが歌うところの作画もすごい。ビビバスかっこよすぎた……。
アフターライブで3Dキャラのライブもあるんですが、映画館で観ることで「ちょうどそこにいる」感じでかわいかったです。
プロセカのブログも書いたことがあるんですが、ちょっと今になると読むに堪えない部分があったので非公開としています。すみません!
2月
3月
劇場版モノノ怪 第二章 火鼠
やはり圧巻のアニメーション!
前作「唐傘」よりもモチーフが分かりやすく、初めて観る人でも楽しめたんじゃないでしょうか(いるのかな?)。
ちょうど知り合いに赤ちゃんができたりした頃だったので、そのことも相まってめちゃくちゃ泣きました。
4月
GODZILLA 怪獣惑星、決戦機動増殖都市、星を喰う者
虚淵玄さんのゴジラ。決戦起動増殖都市って何? 決戦起動増殖都市でした。
虚淵さんと言えば絶望! みたいな風潮はあまり好きではないんですが、物語の技法として絶望を描くのが……やはり上手い、と思ってしまいました。
ゴジラの最大のライバルのアイツの立ち位置がなかなか面白かったので、結構好きです。
5月
岸辺露伴は動かない 懺悔室
アニメで観た話なので知っているシーンがあって嬉しかったです。
ポップコーンを食べるシーンの演技が良すぎる。
映画オリジナルの幸・不幸の呪いを活かしたストーリーもよくまとまっていたと思います。
でも結婚式場のところは良いシーンだけどシュールさもあったよね?
時期不明
リゾートバイト
配信で観たのですが、Filmarksに記録をつけるのを忘れていました。
女性とおじさんが入れ替わったり、八尺様とバトルしたり、お坊さんのかっこいい読経シーン(かっこいい読経シーン?)があったり、中身がおじさんの女性が彼氏といい感じになったりする謎の映画。
リゾートバイトってこういう話ではなかったと思いますが、変なものが観れてよかったです。
変な家
こちらも記録忘れ。なんか他のホラーも観た気がします。
今年はホラーを観すぎて色々混ざってあんまりよく覚えてないです。すみません。
6月
きさらぎ駅 Re:
面白すぎる。大爆笑映画です。前作があったのでもう振り切っていましたね。
机と椅子は列の後ろから持ってきたらいいと思うけど流石にみんな言ってましたね。
7月
沈黙のパレード
ドラマ版「ガリレオ」らしい、実験シーンが溢れる映画。
パレードの演技が見応えがあってよかったです。
真夏の方程式
夏だ! 海だ! 実験だ! の明るい雰囲気から、小学生の子にはあまりにもつらい結末。
海を守る話と親子がお互いを守る話がかかっていて、話を作るのが上手い~~と思いました。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊、イノセンス
デュエマのサブタイトルがこれのオマージュだったので観ました。
攻殻機動隊自体にあまり詳しくないのですが、魂はなにで出来ているのか? 肉体は重要なのか? もし記憶を失ったら魂たり得るのか? 等、SFの王道の哲学のお話で馴染みやすかったです。
イノセンスでは特に、キャラクターが暗喩だけで喋るので「そういう小説」を読んでいるような感覚が強かったですね。
理解が難しくはあるけれど、「魂と肉体」の関係を語る上でこの形を取っていることには非常に意味があると思います。
8月
近畿地方のある場所について
ビデオ版『コワすぎ!』シリーズも何作か観て挑んだ今作。
あれ、コワすぎよりはっちゃけてなくて真面目かも……? と思ったんですが、後半から抑えきれなくなっていました。
あと岩が特撮すぎてかっこいい。
リング
『貞子』の元ネタらしいということで初めて観ました。
呪いのビデオや、テレビや井戸から出てくるのは知っていたのですが、超能力を持つ女性が悪いように利用されて……という背景は初めて知りました。ちょっと意外。
テレビのシーン、撮影技術すごくないですか? 迫力があってよかったです。
温泉シャーク
初めて観たサメ映画です。『JAWS』を観たことがある人と一緒に観たので、「この展開めっちゃJAWSじゃん!」と言ってくれて「めっちゃJAWSなんだなぁ」と思っていました。
もう今までのサメ映画全部観たと言っても過言ではないのではないでしょうか。
制作陣の「これが撮りたい」をひしひしと感じる作品でとても良かったです。
2も制作中らしく楽しみですね。
大長編 タローマン 万博大爆発
TV版のタローマンを観ていたので、映画で何をやるんだろうと思っていましたが、とてもまとまりのある作品で笑ったし泣きました。
真面目に「でたらめ」をやっている!
本当に、作ってくれてありがとう。
8番出口
ジャンプスケア的な要素もありつつ、ホラーというより「8番出口の映画」でした。
今まで散々「誰かに見せないと呪われるビデオ」だの「愚かなインターネット民を駅に来させる」だのイヤ~なエンディングを観てきたので、閉塞感のある人生からも脱出する希望の持てるエンディングが良かったですね。
9月
呪怨
後述『貞子vs伽椰子』が観たかったのですが、伽椰子の元ネタも知らなかったので初めて観ました。
生前の伽椰子さんが住んでいた家に入るともう助からない……らしい。フィールド効果ですね。
もう貞子と戦うことが前提で観ているので、これ貞子に勝ち目あるのか? というところがひたすら気になります。
ストーリーは『リング』のほうがしっかりしていたような……。
貞子vs伽椰子
「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ」のセリフが有名な本作。
白石監督作品はだいぶ観たので、やりたいことは分かってるし面白かったです。
呪いのビデオを見てしまったので貞子が殺しに来る! じゃあ伽椰子の家に行って相殺しよう! というお話です。相殺になってるかな?
探偵? 霊媒師? はイケメンの男性と小さい女の子のコンビで、これがアニメ的にキャラが立っています。
というか、この二人のアニメは別にあって、それの実写劇場版って感じでした。原作が観たいです。
ちなみに女の子は『珠緒ちゃん』らしいです。ギャル霊媒師、ファンサービスだったんですね……。
国宝
画面がずっと綺麗で、芸術の世界は苦しくて、それでもあの日の「景色」に手を伸ばしてしまう。
アーティストの苦悩のようなテーマでありながら、ここまで多くの人に届いているのは素晴らしいことですよね。
主人公二人の関係性、歌舞伎の芝居が相互に作用し合う良い作品でした。
カメラを止めるな!
『怪奇戦慄ワールド コワすぎ!』で見たロケ地だ! となりました。実際はこちらが先なので、『怪奇戦慄ワールド』で「カメラ止めるな!」みたいなセリフが出てきます。
まさに『コワすぎ』シリーズのような手作り感溢れるホラー……かと思いきや、その番組を完遂ために役者やスタッフたちが奔走するドタバタコメディでした。
ホラー番組がみんなこうして撮影されていると思うとほっこりします。こんなには色々起きないでしょうけど!
トラブルの内容も笑えるし、解決方法はトンチキでも意外となんとかなってたり、楽しい作品でした。
10月
NOPE/ノープ
舞台はアメリカの田舎。牧場でUFO(って言わないんでしたっけ)を目撃した兄妹が動画を撮影してみると、それは乗り物ではなく、「それ自体が怪物」だったことが分かり……。
あれ? どっちもあまり変わらないのでは?
カメラを設置してくれた電気屋のお兄さん、動物の決定的瞬間を収めるのが得意なおじいちゃんカメラマンが一丸となり、命をかけて「UFOのバズ動画」を撮るお話です。
「バラエティ番組で人間と仲良くしていたサルが、ある日突然暴走して悲惨な事件を起こした」という本作に出てくるもう一つの話から、「今まで人間に見世物にされてきたサル/UFOが歯向かってくる」ということが読み取れると思いますが、それにしては! なんというか! でも怪獣映画ってこうなのかも……。
ハチャメチャで結構好きでした。
11月
爆弾
これは、等々力さんが主人公のドラマがやっていて、サブキャラだった類家さんが劇場版で主人公になった時のやつですよね?
キャラクターやストーリーはしっかりしているし、爆発は派手だし、とてもいい映画体験でした。
綺麗にまとまってるなぁ、良かったなぁと思う作品ほど書くことが少なくなっちゃうかも。
原作小説は2もあるらしい! 楽しみです。
果てしなきスカーレット
あんまり声優さんっぽくない演技かも? と思ったら芦田愛菜さんでした。エンドロールで名前を見た時、「おお、こんなに大きくなって……」みたいな気持ちになりました。どこ目線。
「赦し」の解釈が良かったですね。復讐のために人生を捧げてしまった自分を赦し、これからは真に自分のために生きようという真っ直ぐなメッセージ。
火山弾で人がばたばた倒れていく中、「愛について教えてよ」と口ずさむシーンが印象に残っています。観てよかったです。
12月
ジュブナイル
少年たちが小さなロボットと出会い、発明オタクの近所のお兄さんと共に宇宙人を撃退する夏のお話。
「オタク」だけど気さくで面倒見のいいキャラが珍しくて新鮮でした。
そこまで堅くないSFで、コメディ要素も多くて観やすかったです。いけー! ガンゲリオン!
マザー・テレサと、読書感想文と、私
誰にとっても、小学生の頃の忘れられない思い出の一つや二つはあるだろう。
私にとって、マザー・テレサの伝記で書いた読書感想文というのはその一つだった。
それは、初めは小学校三年生の夏休みの宿題で書いたものであった。
担任の先生にとても気に入られ、複数のコンクールに応募することとなった。
夏休みの宿題では「20文字×20行の原稿用紙1枚以上」というものだったので、特に作文が好きでも嫌いでもなかった私は2枚目の前半までの文章を書いたと思う。
しかし、先生が提案してくれたコンクールに応募するためには、それよりも多く書かなければいけなかった。
そのため、推敲をしつつ、文章の量を増やすということが必要だった。
学校で賞を獲ると親が喜んでくれるということを知っていた私は、帰って早速母親にこのことを報告した。
そして、母親の監督のもとで、原稿用紙1枚分を増やした次の作文を完成させた。
いい人になりたいな
私は、読書カードにマザー・テレサと書いてあるのを見て、どんな人だろうと思い、この本を読みました。私は、この本を読んで、マザーテレサはやさしくていい人だと思いました。
なぜかというと、亡くなってしまった赤ちゃんから離れられなかったからです。この赤ちゃんは、マザーが造った「孤児の家」に来た赤ちゃんで、一生健命育てたけれど、来た三日後に亡くなってしまいました。カルカッタという町には、やせている子や、ごみ箱に捨てられてしまう子がいることに、おどろきました。ふつうの人は、しにそうな子は見すてるけれど、マザーは、しんでしまった子にも愛じょうをもちつづけていられることがすごいと思いました。
マザーは、やさしいだけじゃなくて、まずしい人たちのためにいろいろ行動したり、アイデアを出したりする人でした。カルカッタの空こうでは、きゅうゆのときに、手をつけていないき内食がでてしまいます。これを、〈孤児の家〉にはらいさげてもらうようにしました。わたしは、きゅう食ののこりを思いうかべました。まずしい人たちのことを考えたら、もったいないと思いました。これからは、きゅう食をのこさないで食べたいです。
それから、マザーが、カルカッタでさとうが手に入れにくいときがあって、それを知ったヒンドゥー教の四才の男の子が、三日間さとうにもふれないで、小さなビンにためて、
「子どもたちにあげたい。」
と言って、そのビンをマザーにわたしました。マザーは、少しのさとうだけれど、大きな大きな愛がひめられていると言っていました。わたしの妹も四才です。そんなに小さいのに、本当の愛を知っていてすごいと思いました。わたしにも、何かできることがあると思いました。それをさがしたいと思います。
マザー・テレサがなくなってしまった時に、世界中から多くの人々があつまって、マザーがそんなに大切にされていたことをはじめて知りました。
わたしは、マザー・テレサみたいにすごい人にはなれないけど、人にやさしくしてあげられる人になりたいです。
推敲をしたという割には、「私」と「わたし」がいたり、「一生健命」という保険会社のような誤字をしていたり、「孤児の家」を囲むかっこの形が違ったり、マザー・テレサの呼び方が違ったりと色々とツッコミどころがある。
案の定、全国のコンクールにはかすりもしなかったが、それでも応募したうちの一つでは入賞を果たした。
私もこの作文のことを思い出し、読み返した時には少し泣いた。担任の先生がこれを気に入った理由も理解することができた。
良いところを理解する一方で、この作文がどうして忘れられない思い出なのかということも身に沁みた。
だから、改めてこの感想文のもとになった本を読み、当時の作文を振り返りながら、今私が書くべき読書感想文をこれからしたためることにする。
読んだ本は、くもん出版の「マザー・テレサ:かぎりない愛の奉仕」。著者は沖守弘氏。
まず、私は「マザー・テレサの伝記を読んだ」という記憶を正すことになった。
本書は、報道写真家である沖守弘氏による写真を交えたエッセイだった。
もちろん、「個人の生涯について記録した本」という観点から言えば伝記であるということには違いない。
どんな人物の伝記でも、著者の個性というのは出るものなのかもしれない。
しかし、この本には、著者がなぜ報道写真家になったのかという話から、どのようにしてマザー・テレサと出会ったのかという話、マザー・テレサが亡くなった後に写真展を開催する話まで記されている。
つまり、この本の主人公は沖守弘でもあり、〝マザー・テレサの伝記〟であると同時に、マザー・テレサという人物に魅せられ、観測し続けた〝著者の自伝〟でもある、と言い換えることができる。
小学三年生の私にはこの構造は難しく、著者の存在については触れることができなかった。
作文に出てくる「読書カード」とは、読んだ本を記録する紙のことだ。
表紙には、国語の教科書に載っている推薦図書や、学校の先生の推薦図書が印刷されており、「一年のうちに何冊かは読むように」とされていた。
マザー・テレサについての本は、図書室に何種類かあり、本書以外にも読んだ記憶がある。
しかし、今なお記憶に強く残っているのは本書である。本書の構造を言語で理解することができなくても、沖守弘という人物の存在がどこかで引っかかっていたのだろう。
髪を布で隠した笑顔のおばあちゃん。
普段は見かけないそのスタイルも、当時の私を惹きつける要素だった。
親は昔の人、祖父母は大昔の人、それ以前に生まれた人や歴史に残るような人物といえば、ティラノサウルスの時代とも区別のつかない昔の人、というような時間感覚の小学生には、カラー写真の彼女が本物のマザー・テレサであるということには何となくピンと来なかった。
本書を読みなおして、オイルショックを契機に世界情勢に興味を持った著者、という描写で「これは遠い昔の話じゃないぞ」という事実がこの身に迫ることになった。
実に十数年ぶりに認識が更新された。
そして、本の至るところに載せられている写真も、より真実味を持って私に訴えかけてくるのであった。
現実を取材した写真に「真実味」というのもおかしな話なのだが、その写真がただマザー・テレサの活動を記録するだけではなく、著者が残さなければならないと感じたメッセージを多少なりとも感じ取ることができるようになった気がするのだ。
作文の始めに出てくる赤ん坊の話は、本書の始めのほう、いわゆる「掴み」の部分に載っている話だ。
これは、夏休み明けに提出した時点で書いていた文章だったと思う。
しかし、本書の本当の最初に文章に出てきた捨てられた赤ん坊は、マザー・テレサに保護されて無事に元気になった。
さて、亡くなってしまう赤ん坊の話はどこに載っているのか?これは、推敲をする際に母親に聞かれた部分でもある。
答えは、載っていた写真の脚注だ。ゆりかごで眠る赤ん坊と、世話をしていた人のものと思われる手、そして医者の署名入りの文書が写っている。
3日めに亡くなった赤ん坊。世話を続けたシスターがはなれられないでいた。
なんと、当時の私もちゃんと写真を見て何かを感じ取ったらしかった。離れられずにいたのは、この写真ではマザー・テレサではなかったけれど。
死後にも愛情を持ち続けているというのも、「誰からも愛されずに死ぬより、あたたかい愛情のもとで死ぬほうがいい」という文中の言葉を自分なりに解釈した結果だ。
これを説明すると、じゃあいいんじゃない、と母親も納得してくれた。
初めから書いていたエピソードはもう一つ。砂糖をビンにためた男の子の話だ。
私の作文では分かりにくいと思うので、補足をする。
これは、マザー・テレサが来日した際に語ったエピソードだ。
マザー・テレサはキリスト教の人物であり、講演も、主に祈るというキリスト教式のスタイルから始まったそうだ。
その講演で語ったエピソードは二つあり、どちらもキリスト教以外の宗教の人物が食糧を分かち合うという話だ。
キリスト教の根本原理の「隣人愛」、つまり自分を愛するのと同じように他人を愛するということを体現した人物としても知られている。
本書には「本当の愛」がなにか、ということは直接は語られていない。
では、私が書いた「本当の愛」とはどんな概念だったのだろう。
マザー・テレサの名言とされているものに「愛の反対は無関心」というのがあるが、この言葉の代わりに、次の文章が書かれている。
わたしたち人間にとって、もっとも悲しいことは、貧しかったり、病気やおなかをすかして死ぬことではないのです。
ほんとうに悲しいことは、貧しかったり、病気だったりするために、だれからも相手にされないことです。
みんなから捨てられて、自分はこの世には、いらない人間だと思い込むことです。
この世でいちばん悪いことは、そういう人にたいする思いやりや愛がたりないことだと、マザーはかたく信じているのです。
「マザーはかたく信じているのです。」という締めのとおり、これは著者の言葉だ。
もちろん、マザー・テレサはこれに類することを繰り返し口にしているのだと思うし、翻訳の仕方によるのかもしれない。
各々が受け取ったメッセージを要約すると、その言葉に集約されるということだ。
つまり、解釈によって二次的に発生した言葉ということになる。
宗教の違いを越えて隣人を愛するということは、信条によらない人間の苦しみや痛みを知り、喜びを尊重し、寄り添うということだ。
これをうまくかみ砕けなかった当時の私は、これを実行できるような人は本当の愛を知っている人物だ、というように解釈したのだ。
そして、この作文で一番大切な文章は、この段落の「わたしにも、何かできることがあると思いました。それをさがしたいと思います。」だ。
マザー・テレサという人物を知り、行動を起こした人物は本書に多く出てくる。
前述の男の子、赤ん坊に寄り添ったシスター、エトセトラ、そして著者である。
マザー・テレサはインフルエンサーであり、周囲の人々は彼女に影響された人なのである。
著者は、古本屋でマザー・テレサについて書かれた本を見つけて感銘を受け、彼女を取材するようになった。
「彼女ひとりを英雄視した伝記はつくらない」という約束を交わし、特別に撮影を許された著者による本書は、読み手にどんな影響を与えるだろうか。
他人のために、自分の砂糖をとっておく。赤ん坊のために、死後もそばに居続ける。では、著者は何のために写真を撮り、この本を書いたのだろうか。
その答えはしっかり私に伝わっていたし、作文は完成していた。我ながら素晴らしい出来だった。
先日、Twitterで「読書感想文は必要ないのではないか」という意見が話題になった。
確かに、コンクールの受賞のために、比較的まとまった感想の中に「貧しい人がいるのだから給食を残してはいけないと思った」という段落を増やすことになったことを考えればそうなのかもしれない。
これ以上何を書けばいいのかわからず途方に暮れ、母親に印象に残っているエピソードを聞かれ、別の紙に箇条書きにした。
それぞれのどこが印象に残っているのかということを聞かれ、それが読書感想文として相応しいかどうかの審議が行われた。
ここで挙げたエピソードには、「松葉杖をついたシスターの話」があった。
二階建ての建物で仕事をしているが、脚が不自由で階段を上れないため、一階で事務を行っているシスターだ。
ある日、二階から悲鳴が聞こえたため、腕の力だけで身体を引き上げて駆け付けた、という話が取り上げられていた。
もしこの話について書いていたならば、一つだけおかしな結論の段落ができずに済んだかもしれなかった。
しかし、作文を一旦書き終わった私は「マザー・テレサの伝記を読んだ読書感想文」の段落を増やさなければいけないと思っていたし、読書感想文は、自分の体験を交えて書かなければいけない、と思っていた。
だから、「松葉杖をついたシスターの話」に対してどんな感想を持つのが正解なのか分からなくなってしまった。
「自分の仕事ではないのに、無理をしてまで助けに行ったのですごい」という感想で正解なのに、私にそんな体験があっただろうか、と考えてしまったために「感想が何もない」ということになってしまったのだ。
この話を読書感想文で取り上げることはなくなり、「残された機内食」と「自分が給食を残してしまうこと」が関連付けられた段落が一つできることになった。
正直自分でも「これでいいのだろうか」とは思っていたのだが、自分なりに考えた感想を「そうじゃないでしょ」「そういう体験はあったか」と言われ続け、自暴自棄になったところにOKが出たのでもうこれでいいや、ということになったのだった。
担任の先生も、文章を増やすのに散々苦労したということを察したのか、特に否定はせずコンクールの書類を書いてくれた。私の読書感想文の苦しい戦いは終わった。
それから、読書感想文という宿題は、多くの人にとってそうであるように、苦痛の宿題としてのしかかってくることになった。
ふさわしい本を読み、正しいテーマを読み取り、書式に従って正しい感想を書く。楽しいはずの読書も、感想文のためだと思うと集中できない。
私の「いい人になりたいな」は読書感想文が苦手だった友達に、親によって半ば勝手に共有され、友達の親御さんからも「素晴らしい」という評価をもらった。
もう一度これを書くべく、毎年のように読み返した。しかし、給食というピースがはまっていないことに気付かないせいで、私はこれ以降読書感想文で賞をもらうことはなかった。
では、読書感想文はやはり苦痛なだけの無駄な宿題なのだろうか?
他人と出会ったとき、人はその他人の中に自分を探そうとする。あるいは、自分が他人を取り入れ、同一の要素を持とうとする。
他人と出会うということは、鏡面に反射する自分を見るということだ。他人を理解するということは、そういうことなのだ。
本書を書いた沖守弘氏も、マザー・テレサの中に自分を見つけようとした。
そして、取材をする間に出会う、マザー・テレサと関わる数多の人々にもまた、自分を見つけていた。
彼は、マザー・テレサに影響を受けた人物でありながら、写真と文章によって他人に影響を与える人物でもある、という位置にいる。
本を読むということは、まず著者に出会い、そして著者を通じて人物やキャラクターと出会うということだ。
自分の映った鏡について文章を書いたら、それは自分についての文章になる、というのが読書感想文の正体である。
これが、感想に実体験を交えるということの意味なのだ。
順序が逆転してしまっては、鏡の自分について書くことができない。つまり、本のテーマを見失ってしまう。
確かにこれを理解するのは難しいのかもしれない。
自分を見つめる、自分について考えるという機会は、学校という場では多くの形で用意されている。
友達と関わること、得意な授業と苦手な授業を見つけること、遠足に行くこと、絵や作文を書くこと。
これらはただ「楽しい」であったり「嫌い」であったりしてもいいし、しっかり意味を享受してもいい。
学校という場は、これがたくさん用意されている、ということが重要なのだ。
自分について考えるということは、意識的でも無意識的でも、自我を持つことに対して有効だ。
そのあらゆる手段について、自分には必要がないものだと、今の私は言うことができない。
わたしにも、何かできることがあると思う。
それは、今の私にとっては、この感想文を書き、自分を発信するということだ。
その時その時にできることを、これからも探し続けていく。